LOGIN翌朝。
オフィスの窓から差し込む朝日が、朱里の眠そうな顔を照らしていた。 昨夜は結局ほとんど眠れなかった。 枕を抱えて何度も寝返りを打つたびに、頭の中には同じ場面がよぎる。 ──「大嫌いです。そういう押しつけがましいの」 自分の声。 嵩の苦笑。 そして、雨の夜道を一人で駆け抜けた寂しさ。 (何やってるんだろう、私……) コーヒーを一口飲んでも、胸のもやもやは消えなかった。 午前中の会議。 朱里が説明している最中、嵩が何度もフォローを入れてくれる。 その度に会議室の空気は和やかになり、上司たちの反応も良くなる。 (……やっぱりこの人は、すごい) 尊敬と同時に、またも嫉妬が胸をかすめる。 彼が「誰にでも優しい」ことを知っているからこそ、その優しさを独り占めしたくなる。 会議が終わった後。 嵩が朱里に声をかけた。 「さっきのプレゼン、すごく良かったですよ」 「……ありがとうございます」 思わず素直に礼を言ってしまい、朱里は慌てて顔を背ける。 すると嵩が続けた。 「でも、ちょっと疲れてませんか? 昨日……無理しましたよね」 朱里の心臓が跳ねた。 やっぱり見抜かれていた。 「そんなことないです」 否定の言葉と同時に、口が勝手に動く。 「そうやって心配ばかりして……だから、大嫌いなんです」 ──五回目。 嵩は困ったように笑う。 「またですか……」 朱里は視線を落とし、机の書類をいじるふりをする。 (どうして。どうしてこうなるの。素直になれないだけで、本当は──) 昼休み。 朱里は社食の隅の席に一人で座っていた。 トレイの上のパスタをほとんど手つかずのまま、ただフォークでかき回している。 「ここ、いいですか?」 不意に声をかけられて顔を上げると、嵩が立っていた。 「……他の席、空いてますよ」 「でも、中谷さんと話したくて」 嵩は勝手に隣に座り、同じトレイのハンバーグを置いた。 近い距離に、朱里の心臓が早鐘を打つ。 「最近、何かあったんですか?」 真っ直ぐな視線。 「僕に隠してること、ありますよね」 朱里の呼吸が止まる。 (あるに決まってる。全部、あなたに関すること。 でも言えるわけない。『好きです』なんて、絶対に) 「……ありません」 絞り出すように答えた。 嵩は少し黙り込んでから、優しく笑った。 「そっか。じゃあ無理に聞きません。でも、もし辛くなったら頼ってください」 朱里の唇が震える。 ──どうして。 ──どうしてそんな風に優しいの。 「……もう、本当に大嫌いです」 ──六回目。 呟きはほとんど祈りのようだった。 嵩はぽかんとした顔をして、やがて苦笑に変える。 「やっぱり今日もそれですか」 朱里はフォークを握りしめながら、必死で顔を伏せた。 (違うのに。本当は、大好きで仕方ないのに) 夜、帰宅した朱里はベッドに倒れ込んだ。 カレンダーを見つめる。 ──まだ、六回。 もし本当に「百回」を言い切ったら、この想いは変わるのだろうか。 それとも、もっと取り返しのつかない後悔だけが積み重なっていくのだろうか。 「大嫌い……大好き……」 心の中で繰り返すたびに、涙がにじんで止まらなかった。翌朝。 嵩はいつもより少し早く会社に着いた。 誰かと約束があるわけでも、急ぎの仕事があるわけでもない。 ただ、昨夜の続きを、頭の中で終わらせたくなかった。 デスクに座り、コーヒーを一口飲む。 苦味が、やけに現実的だった。 (朱里は、言わなかった) それが、どうしても引っかかっていた。 「好き」とも言わなかった。 「一緒にいてほしい」とも言わなかった。 引き止めもしなければ、突き放しもしなかった。 それなのに── あの夜は、逃げなかった。 嵩はPCを立ち上げ、業務メールを確認する。 その中に、見慣れた件名があった。 【人事異動に関する最終確認】 胸の奥が、ひくりと動く。 “ほぼ確定”だった転勤は、 もう“いつ・どう伝えるか”の段階に入っている。 昨夜までは、 「もう少し一人で抱えよう」 そう思っていた。 でも今は、違う。 朱里は、全部を預けなかった。 だからこそ、嵩も“全部を一人で決める”必要はない。 (選択を、共
朱里と別れたあと、嵩はしばらくその場を動けなかった。 時計を見ると、思っていたより時間は経っていない。それなのに、胸の奥には、ひとつの夜を越えたあとのような静けさが残っていた。 朱里は、すべてを語ったわけではなかった。 迷っていることも、不安も、言葉にした。 でも──決定的な一言だけは、最後まで口にしなかった。 「……言わなかった、んだな」 歩き出しながら、嵩は独り言のように呟く。 それが何だったのか、具体的にはわからない。それでも、あれは“言えなかった”のではなく、“選んで言わなかった”のだと、なぜかはっきり感じていた。 帰り道、朱里の声が何度も思い出される。 「まだ、自分の言葉じゃない気がして」 「決めたら、それは逃げじゃなくなるから」 彼女は、自分の弱さを差し出した。 でも、嵩に寄りかかる形ではなかった。 答えを預けることもしなかった。 それが、少しだけ寂しくて──同時に、ひどく誇らしかった。 嵩は立ち止まり、夜空を見上げる。 もし、朱里があのとき「一緒にいてほしい」と言っていたら、自分は迷わず頷いただろう。 もし、「離れるかもしれない」と言われていたら、引き留める言葉を探しただろう。 けれど、朱里はどちらも言わなかった。
朱里の言葉が終わったあと、風の音だけが二人の間を通り抜けた。 駅前の喧騒は相変わらずなのに、ここだけ時間が一拍遅れているようだった。 嵩は、すぐに何かを言わなかった。 それが朱里には、ありがたかった。 問い返されるのも、掘り下げられるのも、今は違う。 ただ受け取ってほしかった。 「……怖かった?」 不意に、嵩がそう言った。 責める響きでも、探る声音でもない。 事実をそっと置くみたいな、静かな問い。 朱里は少し考えてから、頷いた。 「うん。今も」 それだけでいい。 付け足さなくても、否定しなくても。 嵩は小さく笑った。 「それ、言ってくれてよかった」 「……え?」 「好きだって言われるより、今はそっちのほうが、ちゃんと届いた」 朱里は、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。 言わなかった言葉まで、見透かされたようで。 でも、不思議と嫌じゃなかった。
駅前のベンチに座り、朱里はスマートフォンを伏せた。 嵩に会うまで、まだ二十分ある。 けれど、時間が余っているから落ち着けるわけじゃない。 むしろ、考える時間が増えたぶん、頭の中は騒がしくなっていた。 ──何を、どこまで話す? 昨夜、ノートに書き出した言葉たちが脳裏に浮かぶ。 寂しかったこと 置いていかれる気がしたこと 「大嫌い」と言えば、距離を保てると思っていたこと 全部、真実だった。 全部、重すぎる気もした。 朱里は息を吐く。 「全部言う必要は、ない」 誰に言うでもなく、そう呟いた。 嵩に分かってほしい気持ちはある。 でも、分からせたいわけじゃない。 ──選ぶんだ。 ──今の私が、背負える分だけ。 朱里は立ち上がり、歩き出す。 足取りは軽くないけれど、止まらなかった。 角を曲がった先で、嵩の姿が見えた。 少し早めに来たのか、壁にもたれて空を見ている。 その横顔は、以前よりもどこか疲れて見えた。 朱里の胸が、きゅっと縮む。 (ほら、また)
店の看板に灯りが入ったのは、約束の時刻より少し前だった。 朱里はそれを見上げて、一度だけ深く息を吸う。 ──逃げない。 ──取り繕わない。 ──でも、全部は言わなくていい。 第179話で絞り込んだ「話す内容」が、胸の奥で静かに整列している。 言葉はまだ完全な文章になっていないが、順番だけは決まっていた。 扉を押すと、鈴の音が小さく鳴る。 嵩は、すでに来ていた。 窓際の席。背中を少し丸めて、手元のカップを両手で包むようにしている。 視線が合った瞬間、どちらも声を出さなかった。 立ち上がることも、手を振ることもない。 ただ、同じ場所にいるという事実だけが、ゆっくりと二人の間に降りてくる。 朱里は一歩、また一歩と近づく。 嵩はその足音に合わせるように、ほんの少し姿勢を正した。 「……久しぶり」 先に口を開いたのは朱里だった。 思っていたより、声は落ち着いていた。 「うん。久しぶり」 嵩の返事も、短い。 けれど、その一言に余計な温度はなかった。 それが、今の朱里にはありがたかった。 二人は向かい合って座る。
その日、嵩は定時より少し早く会社を出た。早く着きたいわけじゃない。遅れたくなかった。(待たせる側には、なりたくない)駅前の喫茶店。昨日と同じ場所、同じ窓際。店員に案内され、席に着く。コーヒーを頼み、スマホを伏せる。朱里に連絡はしなかった。(急かすことになる)待つ、と決めたのは自分だ。時計を見る。まだ、十分以上ある。(……落ち着け)背もたれに体を預け、深く息を吸う。転勤。答え。選択。朱里の顔が浮かぶたび、その全部が一つに結びついて、胸が詰まる。(正直に言えばいい) (でも、正直って何だ)行く。行かない。それだけの話じゃない。(俺は、どうしたい?)しばらく考えて、苦笑する。(……まだ、決めきれてない)それでも、今日話すことは決まっている。隠さない。濁さない。逃げない。美鈴の言葉が、ふいに浮かぶ。“待つなら、ち







